先日あるアニメを見ていて気付かされたことがあった。
そこでは人が鬼に対して次のようなセリフが語られた。「君は『永遠』を知っているか?」との問いであった。自分にも向けられたのかとハッとさせられた。もちろん 私 は 鬼ではないのだが、文化人類学において鬼や妖怪などは人間の弱さの中から生まれたのではないかとの説もある。だから 私 の弱さ(人の中にある鬼性・妖怪性)に対して語られたと思えば、あながち自分に語りかけられた質問といっても過言ではないだろう。
さて、弱い人間にとって、『永遠』とは強さを示す一つのキーワードであり、それは“不死”とか“変化しない”という人間的な強さへの 憧 れではないか。“変化しない”とは今を変えることが自分にとって悪であるとの思いなのだ。それは【不変】を愛する
ことではあるが、【普遍】を愛することではない。ご承知のように【カトリック】=【普遍】という意味である。つまり【普遍】には変化はある(典礼や 新 しい教義等)が、永続性は別のところに存在する。
だんだん 難 しくなったので 話 を元に戻そう。アニメの中で 心 を打たれた答えは
次のとおり。「永遠とは人だけが持つつながりと 絆 」と。時間の中で鬼も人も死をもっ
て一つの区切りを迎える。しかし鬼は身勝手でそれぞれ単独で動くものであり、そこに愛による 絆 は存在しない。だから鬼の 頭 が死ぬと残党は散るだけであり、すべていずれは成敗される。しかし人は違う。一人の人が死んでも、それを受け継ぐものが 現 れる。思いが引き継がれる。愛の 絆 を持つ人類は、 必 ずそれを受け止めて生き、伝えていくことで途切れることはない。実際私達のキリスト教は弱まる時代や時期があっても途切れてしまうことは歴史上なかった。キリストの意志を 命 を懸けて繋ぎ、その 絆が存在する以上 私 たちは次へも続く。これこそ永遠なのだろう。愛の 絆 はキリストが父なる神から受け、 私 たちに伝えてくれたもので、『永遠』=「愛の 絆 」なのだ。この『永遠』は神の中にあり、神のもとから 私 たちに与えられた愛そのものでもある。そして死しても神との絆が残る。それが永遠のいのちとなるのだろう。私たちは今後もそれを生かせられるのだろうか。
8月に入ると日本の教会は「平和旬間」を迎え、また終戦を思い起こす。「人の繋がと 絆 」という特性を代々持ちながらも人は戦争を 行 う。ヨハネ・パウロ二世の語った「戦争は人間の仕業」と言うけれど、人間の中にある「鬼性・妖怪性」による仕業な のだ。そこには人を鬼化・妖怪化させる何かがある。「人の思い」「人の 絆 」を無視するもの。自己防衛(自己生命尊重主義=死への怯え)だけに 力 を注ぐもの。それこそ諸々の欲に対する無防備な私達。平和を築くためには、私たちのあらゆる欲に対する回心が出発点であり、具体的な取り除き作業が社会平和活動なのだ。平和を求めるとき 「平和活動」だけに留まる 教 会ではなく、人間が持つ 醜 い部分(鬼性・妖怪性)に目をやって、欲や怯えから解放され、それを語り部として次に伝えていける平和旬間になってくれればと願っている。