2024年1月
『ラウダーテ・デウム』講座
ボナヴェントゥラ・蓑島克哉
教皇フランシスコは8年ぶりに『ラウダート・シ』の続編を出しました。
“神を讃えよ”という題名のうしろには“気候危機について”という副題がついています。下線部分だけを読めばすぐ終わります。
パパ様は言います。気候危機(沸騰化)は人間のせいなのだから責任をもって一人ひとりが行動しなければならない、と。
氷の減少も、海流の変化も、熱帯雨林の伐採も、永久凍土の溶解も、すべては繋がっておりどれか一つが悪化すると全体が取り返しのつかない状態にまで悪化するとパパ様は分析しています。
パパ様は、まえの『ラウダート・シ』で、科学技術や経済の発展が幸福を生み出すという幻想を批判しましたが、今回は、最近のAI技術の進化がその幻想をさらに強化させているとの批判を加えています。自然を人間の力を増大させるための原料としかみない考え方はとうてい許されるものではないというのです。政治権力が経済的発展をエサに自然を荒らし、地元から未来を奪っている。実際に、核ゴミを受け入れて一時的に豊かになってもすぐに墓場となってしまった地域があると紹介しています。
札幌教区の正義と平和協議会が関わっている北海道の神恵内村や寿都町の核ゴミ受け入れ問題もここに当てはまるでしょう。地球を守るためには地道な国際協力が必要不可欠ですが、金融危機のときも、コロナによる危機のときも、世界は分裂したままだったとパパ様は指摘します。国連も世界会議COPも、巨大な国家権力の前に無力でした。ゆえに市民間で協力して下からの権力を突き上げることが大切だと言いますが、それは政治を無視することではなく、力の論理で決めることをやめ、皆で話し合う地球規模での民主化のシステム作りが急務だと指摘しているのです。いまこそ、国益を優先するのではなく、共通善を目指しましょう。単に、技術の発展によって乗り越えようとするのではなく、様々な観点で考えていくことが大切です。
パパ様は最後に信仰の大切さを訴えています。信仰が、生き方、人生の目標、相手との関わり方を変えます。イエスが愛した自然や生物との調和を人間が乱しています。地球温度を下げるということで終わるのではなく、環境を破壊しないという文化をみなで成熟させなければなりません。人間は神にでもなったつもりでいますが、いまこそ“神を讃え”ましょう、と。
ざっと、本の内容を紹介してみましたが、わたしたちは、神がいつも共にいて必要な助けや照らしを与えてくださるという信仰をいただいています。信じていることを生きることができますように、祈りのうちに連帯しながら、まずは一人ひとりができる地球資源の節約を実践して参りましょう。
「待降節」
令和5年11月22日
ボナヴェントゥラ・蓑島克哉
“聖書のことば”は人生の指針となるものですが、“ことわざ”もまた大きなヒントを与えてくれます。わたしが好きなことわざは、淮南子(紀元前139年)の「人間万事塞翁が馬」です。
むかしむかしの中国、ある老人の馬が逃げ出しました。畑仕事をする馬がいなくなり肩を落としていると、数日後にその馬がおどろくほどの駿馬を連れて帰ってきました。これでなんとか生活のめどがたつと喜んだのもつかのま、息子がその駿馬から落馬して足を骨折してしまいました。病院がなかった時代、歩けなくなってしまうかもしれないと老人が悲しんでいると、その地方で戦争がおこり、若者はみな駆りだされて死んでしまいました。息子は足の骨を折っていたので兵役を免れ、多くの子孫を残した、という内容です。人生には、扇の羽のように、良いときも悪いときもあり、良いと思ったことが悪いことに繋がり、悪いと思ったことが良いことに繋がるのだから、いちいち一喜一憂しないで自分の道を歩み続けなさいという内容です。聖書にも「神のはからいは限りなく生涯私はそのなかに生きる」(詩編90)という言葉があります。神はわたしたちの歩みに必要な糧をお与えになるのだから、一喜一憂せず信頼のうちに恐れることなく歩んでいきたいものです。救い主イエス・キリストを待ち望みながら待降節を過ごしてまいりましょう。
「若さと信仰生活」
令和5年10月22日
ボナヴェントゥラ・蓑島克哉
コロナまっただなかの2021年、「みなさんどうされているか」と心配になったわたしは、一人ひとりに電話をかけ、その近況を伺いました。
ひとりでできるロザリオや散歩をしている方がほとんどでしたが、みなさん必ず電話の最後に「神父さん元気でね。いつも祈っているからね」とおっしゃってくれたのが昨日のことのように思い出されます。
あるとき、「この教会に所属している若者は何人いますか」と尋ねたところ、その年配男性は「うちの教会にはハナタレ小僧の70代が少々と、ヒヨッコの80代がほどほどに、そして若者の90代が現役でたくさんおります」とおっしゃいました。わたしは一瞬キョトンとしてしまいましたが、すぐにそのユーモアに富んだ答えのなかに、本当の若さとはそれぞれの心持ちなのだということを教えていただいたのでありました。
将棋界の伝説となっている加藤一二三さん(愛称:ひふみん)は現在、83歳となりますが、いまも所属教会で入門・養成クラスで教えています。ひふみんの『だから私は、神を信じる』という著書は、深い霊性と謙虚な信仰心、そしてユーモアに満ち溢れている良書です。49歳になった(オムツがとれない赤子のような信仰をもつ)わたしのお手本です。
千歳・恵庭教会にも多くの若者がいらっしゃいますが、どうぞこれからも、あとに続くわたしたちをよろしくお願いします。わたしはみなさんの霊的お父さん(神父)として、「全能の父である神さまの豊かな恵みと祝福が皆さんさんのうえにありますように、アーメン」と祈っていますが、同時に、皆さんの後輩として皆さんからたくさんのことを学んでいます。寒くなりましたので暖かくしてお過ごしください。どうかこれからも元気でいてください。
千歳教会に十字架の道行が設置されました。教会へいらした際は、是非ご覧になってくださいね。礼拝しやすい場所にあります。それでは失礼します。
以上
「小さき花のテレジア」
令和5年9月22日
ボナベントゥラ・蓑島克哉
あっというまに秋になりましたね。みなさん、おからだを大切になさってください。
わたしは月に2回、伊達市にあるカルメル会女子修道院へいき、15人のシスターの霊的お世話をしています。修道女達は母マリアの娘として大テレジア(アビラ出身のイエスのテレジア)と小テレジア(リジュー出身の小さき花のテレジア)の模範に見習い、生涯のすべてを神に委ねて生活しています。朝早く起き祈りと労働を捧げますが、畑仕事もクッキー製造も厳しい労働です。労働で得た収入は必要な分だけを残してすべてを支援が必要なところへ寄付しています。わたしは未熟な司祭なのに、シスターたちの霊的お世話をしています。実に不思議なことですが、イエスの弟子たちはみんなそうでした。それは誰ひとり思いあがらないためです。わたしたちは皆、自分のおかげではなく、神の選びのおかげで洗礼をうけ、神の子となる恵みを頂きました。人間的にみて優れた者ではなく、とるになりない者や見下げられている者が選ばれたのです。「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5・31-32)とイエスは言いました。なんという慰めでしょうか。小さき花の聖テレジア姉妹は、心臓(愛)になりたいと言いました。心臓は小さいですが休むことなく体中(家、共同体)に暖かい血液を送り出します。どんなに小さい愛情でも、神が大きなものとしてくださると聖女は信じていました。読書の秋、ゆっくり聖書を読みながら、小さくあることを実践してまいりましょう。
「赦すこと」
令和5年8月22日
ボナベントゥラ・蓑島克哉
ペトロがイエスに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」とたずねたとき、イエスは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と言いました。そのあと、天の国のたとえを語り始めます。その内容は、主君に莫大な借金を帳消しにしてもらったにもかかわらず、仲間の借金を帳消しにしてやらなかった家臣を主君は牢獄に投げ入れてしまったというものでした。神はわたしたちを憐れに思いすべての罪を赦してくださいましたが、わたしたちは仲間の罪を赦さずに当然のように謝罪や悔い改めを求めることにより、心が憎しみや敵意といった牢獄に投げ入れられてしまっている、というのです。幼少期から中年期に至るまで、わたしはいったい何度“赦されて”きたのだろうか。これから先もまた、多く“赦されて”いくのだろうが、キリストの司祭として、そして、ひとりの人間として、“赦すこと”ができているのだろうか。イエスのみことばは、今日もわたしに霊的内省を促します。
聖ヨハネ・クリゾストモは「赦すとき、もっとも神に似た者となる」と言いました。赦すことは、ときに大きな困難を伴いますが、神の恩恵があれば必ず赦すことができるでしょう。互いに赦しあい、愛しあいながら、冷たき牢獄を抜け出し、神の子の自由に満ちた喜びに生きて参りましょう。皆さん、インターネットやテレビを見るのと同じくらいに聖書を読む時間を持ちましょう。みことばが今日も愛する力を与えてくださいます。
令和5年7月29日
ボナヴェントゥラ・蓑島克哉
「キリスト者の生活の中心」
大丈夫、イエスさまはわたしたちを支えるためにミサをつくってくださいました。イエスさまはご聖体のかたちとなって、わたしたちの中へやってきて、ご自分の愛で満たしてくださいます。神さまとひとつになるなんて、なんて偉大な神秘でしょうか。ミサ(や集会祭儀)でイエスさまをお迎えするため、心とからだの掃除をしましょう。祈りがはじまる前に心のなかにたまっているホコリやゴミを集めましょう。ミサのいちじかん前から水分いがいの食事をとらず、じぶんにできる礼服を着たりベールをかぶったりして受入態勢を整えましょう。「Lex Orandi, Lex Credendi(祈りの法は信仰の法)」ということわざがあるように、それがすでに祈りの一部なのです。祈り(の準備)でその人の信仰がわかるという意味合いです。メジャーリーグで活躍したイチロー選手は、最高のパフォーマンスを出すために、家をでるとき心のスイッチを切り替えたそうですが、わたしも祭服に着替えるとき心を切り替える祈りをします。はじめてのように(sicut Prima)、さいごのように(sicut Ultima)、ここだけで行われているように(sicut unica)、最大の熱意をもってイエスの愛の食卓を司式することができますように、と。聖ヨハネ・パウロ二世教皇は、ミサのときも、ミサ以外のときも、聖体がある聖堂を祈りの家とするよう勧めています。主日ミサや集会祭儀への参加だけでなく平日の聖体訪問もお勧めしています。諸事情により教会へ来られない方はご連絡ください。聖体奉仕者の皆さんと協力してイエスさまをお届けいたします。今年も暑くなりそうですね。皆さんの心と体の健康と無事を祈っています、アーメン。
「愛の炎」
令和5年6月17日
ボナヴェントゥラ・蓑島克哉
“神父さんお疲れですね?”と声をかけられ、はじめて自分が疲れていることを知らされる今日この頃。たしかに最近の私の生活は不規則です。毎日のミサは早朝だったり夕方だったりとその日の予定によって変わり、担当する5教会・3幼稚園・各委員会の巻頭言、説教、勉強会の資料作り等に追われて、あっという間に時間が過ぎていきます。ときに心ない批判を受けることもありますが、謙虚に受け止めながら与えられた使命を果たしていこうと思います。コロナの後遺症はまだあるものの、皆さんに助けられ、祈っていただきながら、なんとかキリストの祭司職を果たすことできています。先日、皆さんと電話でお話しすることができたことは大きな喜びでした。ご自宅や病院へご聖体のイエス様をお連れすることができたのも嬉しかったです。本当にありがとうございました。
わたしは担当司祭としていくつかの活動に関わっていますが、肉体は疲れてもいつも心は燃えています。ホームレス支援の“みなずき会”では毎週水曜日にお弁当や衣類を配布しますがたくさんのイエス様が来られます。最近の“正義と平和協議会”ではとくに大軍拡が進んでいる現実を学んでいますが貧しくなりつつある国民の生活よりも軍拡を優先する政府の姿は戦前と同じですね。そのほか“聖書委員会”や“エキュメニカル委員会”、“神学生養成担当”や“終身助祭委員会”では、神のことばの奥深さ、ともに祈ることの喜び、キリストの養成を学んでいます。月2回の“伊達カルメル会での講話と霊的同伴”では指導している私が逆にシスター達から力をいただきます。“ほっかいどうオリーブの会”では、様々な生きづらさをもっている方が集まり互いに支えあっておられますが、自分の苦しみよりも隣の人の苦しみに寄り添う姿はわたしにどう生きるべきかを教えてくださいます。そして、なんといっても皆さんが分かち合ってくださる神との出会いや信仰体験の数々がわたしにとって大きな学びの場、元気の源です。7月は佐久間神父様の故郷を訪問するバス旅行があります。忙しい毎日を過ごしている私たちにきっと神様が心の癒しを与えてくださるでしょう。一緒に行けない方のためにもたくさん祈り語り合ってまいりましょう。小林神父様も一緒にいってくださいます。わたしたちの信仰生活と教会活動の一つひとつが多くの人の心に愛の炎をともすものとなりますように。
「イエスのみ心」
令和5年5月23日
ボナヴェントゥラ・蓑島克哉
6月は“三位一体”、“キリストの聖体”、“イエスのみ心”と神のお祝いが続きます。
日本の司教団は『カトリック教会の教え』のなかで、「〔三位一体の神について、〕父なる神を子であるキリストが伝え、父と子は、聖霊において直接わたしたちに到達する」と教えています。わたしたちは、「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」と十字のしるしをきりますが、神と共にすべてを始め終えるとき、三位一体の神がわたしたちを神の命(愛)で満たします。そんなわたしたちを力づけるため、イエスはパンの形でミサの度ごとにやってきて、我らのお腹と心を愛であるご自身で満たしてくださいます。神と人間がひとつになるという驚くべき神秘です。17世紀のフランスの修道女アラコックは、ミサ、聖体拝領、告解を大切にすることによってイエスの聖心への敬意を深める信心を始めました。イエスがわたしたちの空っぽの心をご自身の愛で満たしてくださるという信仰です。
わたしたちが住んでいる恵庭市と千歳市は、道内で栄えつつある場所としていま注目を浴びています。日本の経済を支える半導体会社ラピダス(ラテン語で、猛烈に速いという意味)は千歳市を中心に、苫小牧市、札幌市、石狩市と事業を展開していくそうですが、大自然が残る恵庭と千歳はこれから24時間眠らない街へと変わっていくのでしょうか。星空を見上げながらゆっくりと“神の愛”を黙想する時間を大切にしていきましょう。
わたしたちは24時間、光の子として“真の光”を携えて、すべての人と関ることができます。どんなに経済的発展を迎えたとしても街の光は孤独という暗闇を照らすことができません。誰しもが感じる孤独を打ち消すことができるのは愛という名の光です。微笑み、優しい言葉掛け、助け手を差し出す、相手の心を思いやる、わたしたちは何ができるでしょうか。三位一体の神が共にいて、わたしたちを神の命で満たしてくださるのですから、自分の命の光で周りを照らすことができるでしょう。イエスの聖心を胸に留めて、今月も心を一つに信仰生活を歩んで参りましょう。
以
「千歳教会の皆さんへ」
令和5年4月30日
カトリック千歳教会司祭 ボナヴェントゥラ・蓑島克哉
カトリック千歳教会の皆さんはじめまして。4月に赴任した蓑島神父です。生れは丹頂鶴で有名な釧路市です。出身教会は酪農が盛んな十勝地方にあるカトリック帯広教会で、十勝カルメル会女子修道院に毎朝通っていました。前任者の佐久間神父は神学校時代の一学年先輩で、わたしは札幌教区で一番下っ端の神父となります。右も左も、そして上も下もわかりませんが一生懸命頑張りますのでご指導とご鞭撻をよろしくお願いします。
パパ・フランシスコが「すべてのいのちを守る」というメッセージを携えて来日したとき、私は東京ドームで一緒にミサを司式しました。パパが書いた『Placuit Deo(神はよしとされた)』という書簡は、わたしの司祭生活の指針です。パパいわく、司牧者は”喜び”をたずさえて小さくされている人々のところへ出向いていく者でなければならないが、ただ出向いていくのではなく出会う一人ひとりの心に時間をかけて向き合う者でなければならない。ミサや勉強会は大切な務めであるが、もっとも大切なのは一人ひとりの心にふれることである。司教や司祭は信徒の世話をするとき一人ひとりの心の動きを察知して、理解し、導き、成長させ、識別して、霊的指導を与える養成の務めがある(パパは霊的指導のできる司牧者を望んでいるようです)。こういう司祭を目指して祈りと学びの日々を過ごしています。
わたしは現在、札幌教区の神学生の養成担当を務めていますが、伊達カルメル会女子修道院のシスターたちの霊的同伴(ゆるしの秘跡)と要理教育を担当しています。これらの役目を通じて、実はわたし自身がイエス・キリストから霊的指導を受けていると感じています。そしてなにより信徒の皆様との関りがわたしにとっては大切な学びの時であります。どうか千歳教会の皆様におかれましては色々とお話を聞かせてくださいますようお願いします。
戦国時代をクリスチャン大名として生きたユスト・高山右近は、抹茶を友人に振舞いながら一緒にロザリオをしていたそうです。仲間たちの悩み相談を受けながらともにデウスの導きを願っていたようです。わたしも皆さんと一緒に抹茶会をしながらロザリオや歌唱で聖務日課をしたいと思います。
まだまだコロナ禍の不安は続いていますが、同じ信仰をもつ一人の仲間として、互いに互いの無事と健康を祈りながら千歳教会の活動を一緒に作り上げていきたいと思いますのでご指導とご鞭撻を重ねてお願い申し上げます。
母マリアがどんなときもわたしたちを主イエスのもとへ導きくださいますように祈りながら挨拶を終わります。
主の恵みと平和が皆さんのうえにありますように、アーメン。
令和5年3月22日
カトリック千歳教会主任司祭 佐久間 力
「復活の希望の中で」
思い返してみますれば、2020年に恵庭・千歳・北広島教会に赴任してから早や三年。ずっとコロナ禍だったので、所属信徒の中には佐久間神父に会ったことがないという方もいるかも知れません。3年前、コロナの緊急事態宣言の中、接触を避けるために、主日のミサ参列も中止となり、司教様と司祭団だけの、不思議な聖週間を送ったのを思い出します。そして今、コロナがようやく明け始め、教会活動がこれからというときに、教会を後にしなければならないのは本当に残念でなりません。わたし自身も、新しく受け持つ教会で、何ができるのか、何が起きるのかを考えると不安もつのります。これから、新しい場所で、新たな人間関係を築くところから改めて始めていかなければなりません。
しかしどんな時も、これから訪れるであろう「変化」を恐れるのはわたしたちにとって、当たり前のことです。変化は必ず痛みを伴うがためです。これまでやってきたことを変えることは、それまでの日常を変化させ、それに脳や体を順応させなければなりません。頭を使わなければならないとき、人はストレスを感じるし、順応するためのトレーニングにもストレスや痛みが伴います。だから人は変化を恐れなるべく変化をしないように、ストレスがないように振る舞おうとします。しかし、変化のない所には、「成長」や「成熟」もありません。言うならば、変化は必ず成長と成熟をもたらしてくれると言えます。また、たとえ司祭が代わらなくとも、教会は常に変化していきます。信徒も年を取るし、メンバーが減ることもあれば、新たに加わるということもあるでしょう。そうやって常に変化し続けていくのも、教会の姿であると思いますし、新しくなる中には必ず不安も伴います。将来はどうなるのか、この教会はどうなっていくのかと。しかし、どんな時でも、その変化の中には、イエス様が働いてくださるのだとわたしは信じています。そのイエス様の介在を信じることができるなら、どんな時でも希望が失われることはありません。「これから、どうなってしまうのか」ではなく、「いったい、これからどんなことが起こるんだろう」というワクワク感こそが大切で、そんなふうに見かたを変えることが、また新しい希望を呼び込みます。
そしてまた、もう一つ大切な時にも、人は痛みを感じます。それは「愛」を行う時です。人が愛するとき、それは必ず痛みを伴います。子供を愛するとき、自分のことなど顧みずに世話をする親は、身を削って子供の世話をする。誰かのために見返りを求めずに与えるとき、そこには愛があり痛みがあります。マザーテレサも、「痛むほどに与えなさい」と言われます。人は愛するとき、自らを変える力を得ます。だからこそ、愛するとき人は痛みながらも変えられていく。その大きな愛と、大きな変化を体現した方こそ、イエス様、その人でしょう。神でありながら人となり、神の愛の宣教の先にあった受難の中での、十字架上の死とそこからの復活。この神秘の中にこそ大きな愛と、はかり知れない希望があります。
これからも、大きな変化がわたしたちの共同体、社会、それぞれの人生に与えられることでしょう。そのたびに恐れ、不安に陥り、時には逃げ出したくもなるときもあるかも知れません。そんな時こそ、イエス様の受難と復活に目を向け、確かな希望がそこにあることを確認し、新たな一歩を進めていく力を受けていきましょう。わたしたちはどこにいても、いつも「一つの教会」の中で、イエス様を牧者として歩む羊です。新しい季節に、わたしたちの羊飼いと共に、一歩一歩、希望の中で歩んでまいりましょう。
令和5年2月22日
カトリック千歳教会主任司祭 佐久間 力
「灰をかぶるということ」
今年も、四旬節に入りました。わたしたちは「灰の水曜日」に集まり、灰を受けます。子供のころは、この灰の式はさっぱり意味は分かっていませんでしたが、額に灰を塗り付けられるのは、なんとなく特別な紋章でももらったかのように、ちょっと誇らしく嬉しかったのを思い出します。もちろん子供ですから、額の灰の付いた所に両手の指を当てて「第三の目、開眼!」と言いながら、おだっているだけの事で、断食や犠牲については、何にもわかっていなかったのは言うまでもありません。
灰をかぶる、塵に座る、塵の上に体を転げるという、灰や塵に関した行為が、旧約聖書の中ではよく見られます。そして合わせて服を引き裂く、粗布をまとう、断食、などの行為も伴います。これらの行為は、その時既に起きた、あるいはこれから起こる神の怒り、災難に際して行われます。例えば、ヨブ記では、悪魔の計らいですべてを失い、自身もひどい皮膚病にかかってしまったヨブは「灰の中に座り」(2章8節)、彼を見舞った友人たちも「嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった」(2章12-13節)とあります。このように「灰をかぶる」「塵の上に座る」という行為は、ユダヤ人にとって自分の惨めさや弱さを神の前に示すことであり、みずからの謙虚さ、従順さの姿勢を示して、神の憐れみを求めるという儀式でした。
わたしたちが四旬節の始めに灰を頭に受けますが、灰を受ける、あるいは四旬節に勧められる「断食や節制」自体に恵みがあるというよりも、そこに「犠牲」の心が湧き上がるからこそ、恵であると言えるのでしょう。預言者イザヤは言います「お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう、、、そのようなものがわたしの選ぶ断食苦行の日だろうか、、、頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それをお前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。、、、虐げられた人を介抱し、、、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」(イザヤ58章4-9節) いま世界を見回しても、この時代にこのようなことが起こるのかという目を疑うような事態が各所で起こっています。戦争、クーデター、人民の抑圧、自然災害、そんな中で、少しの犠牲を払い、支援や援助に心を向ける、これも神様の求める断食と節制になると言えるでしょう。
この四旬節の始まりに、「灰をかぶる」という行為に込められた意味を心に留め、いつもは向き合いたくない自分の罪や弱さに目を向け、神の前に素直に差し出す、それが大切です。しかし、このような弱いわたしたちのために主イエスは受難を受け、死に、そして復活されたました。その恵みに感謝しながら、神に心を向ける「回心の時」を過ごしてまいりましょう。
令和5年1月25日
カトリック千歳教会司祭 佐久間 力
「イエス様の『愛しなさい』という命令」
「蛙の祈り」(アントニー・デ・メロ著/裏辻洋二訳/女子パウロ会)から。
<兄弟愛> 二人の兄弟がいた。一方は独り者で、他方は所帯持ちだった。彼らは二人して、たんぼを所有していた。地味豊かなので、いつも豊作に恵まれた。収穫はいつも折半していた。
当初、何事もなく過ぎていた。さて、所帯持ちの男は時折、夜寝つくと目がさえるようになった。彼はこう考えた。 「どうもこれは公平じゃない。わたしの兄弟は結婚していない。彼が手にするのは収穫の半分だ。一方私には妻と五人の子供がいる。晩年に必要な蓄えは十分にある。だが兄弟が年老いたら、いったいだれが彼の面倒をみるのだろうか。今以上に将来に備えて、蓄えをしておかなければならない。そうだ、私以上に必要なんだ。」 そこで彼は起きだし、穀物袋を担ぐと兄弟の家にそっと忍びこみ、倉庫に納めた。
独り者のほうもこのごろ寝つきが悪く、目のさえることが多かった。すっかり目がさえたとき、彼はこうつぶやいた。 「これはまったく不公平だ。兄弟には妻と五人の子供がいる。彼が手にしているのは収穫の半分だ。私は自分が一人食べてゆけたらそれでいい。兄弟は私よりももっと多くを必要としている。彼に多くを与えるのが道理というもんだ。」 そこで彼は起きだし、兄弟の倉庫に穀物袋をそっと置いてきた。 ある夜、二人は同じ時刻に起きだし、背中に穀物袋を背負って、相手の家に向かって走った。
何年もたって、二人ともに亡くなった。生前の彼らの話がもれ伝わってきた。町民たちは二人の心がけに感動し、二人を記念する寺を建立することにした。その場所は彼ら兄弟が穀物袋を背負って、鉢合わせした場所と決まった。町にはそこをおいて他に聖なる場所はないという意見によったのである。
宗教的であるかないかの区分をつける重要な要素は、 礼拝するかしないかの間ではなく、 愛するか愛さないかの間にある。 |
イエス様は、わたしたちに「愛しなさい」と命令されます。しかし、愛することは命令されて行うことができることでしょうか。心の中から湧き上がる、相手のことを思い、相手の幸せを願い、なんでもいいから自分の持っているものを相手に与えたいという気持ちに従がって、自由に行って初めて愛になるものであると思います。しかしその結果がもたらすことは、自分の思い描いた通りであるとは限りません。この兄弟愛の物語を読んで、美しいと思うか、お互い無駄なことをした兄弟と見るかは、見る者の視線によって変わります。兄弟がお互いに思い合い、愛を与えあった結果は、感動と宗教的な崇敬まで起こさせ、後世の人に「愛することはなにか」という教訓を広めます。しかし、この兄弟はそこを目指してはいなかったでしょう。
わたしたちは、誰かに何かをしてあげたいという思いに駆られて動くこともありますが、そこについ見返りを求めてしまいます。だから「あんなにしてあげたのに、なんでわかってくれないの?」という言葉が口をついて出てきてしまう。わたしたちは本当に弱い存在なので、なかなか神様に「ゆだねる」ということが難しい。いつでも尊敬されたい、褒められたい、認めてもらいたいと不平と不満をため込みます。また、それがストレスでやる気も失ってしまう。これは自由ではないですね。イエス様の言った「わたしの願いではなく、御心のままに」(ルカ22章42節)という言葉が、わたしたちの祈りと行いになりますように祈っていきましょう。きっとあなたの思いは報われます、神様の前で。
令和4年12月21日
カトリック千歳教会司祭 佐久間 力
「主のご降誕に願いを」
2022年もまた、1年を通してあまり明るくないニュースが多い年でした。コロナ感染は拡大を継続し、ウクライナでは戦争が始まりまだ続いている、気候変動によって大雨や大雪の災害も、冬が始まったばかりなのにすでに起きている。来年こそは明るい一年であるようにと、昨年の今頃にも願ったことを思い出します。このクリスマス聖なる夜に思うのは、イエス様はこんな混乱続く世界に飛び込んでこられたんだなあという感謝の気持ちと、でも、これらの問題をいっきに解決はしてくれないんだなあという思いでした。そう考えてみると、イエス様って「ウルトラマン」というより、「ドラえもん」なんだなあという思いが頭によぎります。
ウルトラマンはひとたび怪獣が現れるとどこからともなく現れて、3分以内で怪獣を倒して空の彼方へ帰っていく。それは、自らの強大な力で、人々の前に身を挺し、問題をすべて解決する存在として神様のようにあがめられる存在、ヒーローそのものです。しかし、ドラえもんはのび太が問題を抱えて困って頼ってくると、その問題解決に役立つ道具を取り出して与え、その道具を持って自分で解決するようにさせます。そしてのび太がその道具を誤って使う(たいていはいたずら)と、のび太をたしなめて、正しい使い方を教えて、問題を解決するまで同伴する、そんな存在だと思うんです。
しかし、意外とわたしたちがキリストに願っていることは、実はウルトラマンのように本人が現れて、直接問題を解決し、すべてを平定するような願いかたではないでしょうか。特に日本人は水戸黄門に代表される「勧善懲悪」(悪を懲らしめ、正義を見せつけること。つまり正義は勝つ!)を好むし、そうなることを望みます。悪い人を探し出し、その悪い人が大きな力に裁かれるのが好きですから。
でも、イエス様のやり方はきっと「ドラえもん的」なやり方です。のび太の助けを求める声を聞き、問題解決に必要な道具を出してあげて、のび太自身にその問題と向き合わせます。その問題解決も単にいじめっ子を懲らしめるというより、のび太もジャイアンもスネ夫もしずかちゃんも、最後にはみんな納得して、また仲間になるという方向が多い気がします。きっとイエス様はこんな結論を目指しているからこそ、わたしたちに「思いやり」や「分かち合い」や「対話」などの道具を与えて、イエス様自身も、わたしたちと一緒に歩んでくれるんだろうと思います。
だからこそ、この世界に現れるとき、すべてを解決するスーパー・ヒーローのような登場のし方はしないで、わたしたちに「同伴する」べく、わたしたちと同じ弱い存在「赤ちゃん」としてお生まれになったのだと思い至ると、この主のご降誕にも大きな感慨を感じます。
さて、クリスマスと新年を迎えるわたしたちが、この静かな聖なる夜に、イエス様にどんな「道具」を出してもらうことを願いましょうか …。
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