千歳教会司祭からのメッセージ


2024年1月

 

 

 『ラウダーテ・デウム』講座こうざ

 

ボナヴェントゥラ・蓑島みのしまかつ

 教皇きょうこうフランシスコ8年ぶりに『ラウダート・シ』の続編ぞくへんました。

かみたたえよ”という題名だいめいのうしろには気候危機きこうききについて”という副題ふくだいがついています。下線部分かせんぶぶんだけを読めばすぐ終わります。

パパ様は言います。気候危機(沸騰化ふっとうか)は人間にんげんのせいなのだから責任せきにんをもって一人ひとりが行動こうどうしなければならない、と。

こおり減少げんしょう海流かいりゅうの変化熱帯雨林ねったいうりん伐採ばっさい永久凍土えいきゅうとうど溶解ようかいも、すべてつながっておりどれか一つ悪化すると全体が取り返しのつかない状態にまで悪化するとパパ様は分析しています

パパ様は、まえの『ラウダート・シ』で、科学技術かがくぎじゅつ経済けいざい発展はってん幸福こうふくを生み出すという幻想げんそう批判ひはんましたが今回は、最近のAI技術の進化がその幻想をさらに強化きょうかさせていると批判を加えています。自然を人間の力を増大させるための原料げんりょうとしかみない考え方はとうていゆるされるものではないというのです。政治権力せいじけんりょく経済的発展けいざいてきはってんをエサに自然を荒らし、地元から未来をうばっている。実際に、かくゴミを受け入れて一時的に豊かになってもすぐに墓場はかばとなってしまった地域がある紹介しています

札幌教区さっぽろきょうく正義せいぎ平和協議会へいわきょうぎかい関わっている北海道の神恵内村かもえないむら寿都町すっつちょうの核ゴミ受け入れ問題ここに当てはまるでしょう。地球を守るためには地道な国際協力こくさいきょうりょく必要不可欠ですが金融危機きんゆうききのときもコロナによる危機のときも、世界は分裂ぶんれつしたままだったパパ様は指摘してきします国連こくれん世界会議せかいかいぎCOPも、巨大きょだい国家権力こっかけんりょくの前に無力むりょくした。ゆえに市民間で協力して下からの権力をき上げることが大切だといますが、それは政治を無視むしすることではなく力の論理ろんりで決めることをやめ、皆で話し合う地球規模ちきゅうきぼでの民主化みんしゅかのシステム作りが急務きゅうむだと指摘しているのですいまこそ、国益こくえき優先ゆうせんするのではなく、共通善きょうつうぜん目指しましょう。単に、技術の発展によって乗り越えようとするのではなく、様々な観点かんてんで考えていくことが大切です

パパ様は最後に信仰しんこうの大切さを訴えています信仰が、生き方、人生の目標、相手との関わり方を変えます。イエスが愛した自然や生物との調和ちょうわ人間が乱しています。地球温度ちきゅうおんどを下げるということで終わるのではなく、環境を破壊はかいしないという文化をみなで成熟せいじゅくさせなければなりません。人間は神にでもなったつもりでいますが、いまこそ“神をたたえ”ましょう、と。

 ざっと、本の内容を紹介してみましたが、わたしたちは、神がいつも共にいて必要な助けや照らしを与えてくださるという信仰をいただいています。信じていることを生きることができますように、祈りのうちに連帯しながら、まずは一人ひとりができる地球資源の節約せつやく実践じっせんして参りましょう。

 

2023年12月

 「待降(たいこう)(せつ)

令和5年11月22日

ボナヴェントゥラ・蓑島(みのしま)(かつ)()

 

 “聖書(せいしょ)のことば人生(じんせい)指針(ししん)となるものですが、ことわざ”もまた(おお)きなヒントを(あた)えてくれます。わた()きなことわざは、淮南子(えなんじ)紀元前(きげんぜん)139(ねん))の人間(にんげん)万事(ばんじ)塞翁(さいおう)(うま)です

 むかしむかしの中国(ちゅうごく)ある老人(ろうじん)(うま)()()しました。(はたけ)仕事(しごと)をする(うま)なくなり(かた)()としていると、(すう)日後(じつご)にその(うま)がおどろくほどの駿馬(しゅんめ)()れて(かえ)ってきました。これでなんとか生活(せいかつ)のめどがつと(よろこ)んだのもつかの息子(むすこ)がその駿馬(しゅんめ)から落馬(らくば)して(あし)骨折(こっせつ)してしまいました。病院(びょういん)がなかった(じだい)(ある)けなくなってしまうかもしれないと老人(ろうじん)(かな)しんでいると、その地方(ちほう)戦争(せんそう)がおこり、若者(わかもの)はみな()されて()んでしまいました。息子(むすこ)(あし)(ほね)()っていたので兵役(へいえき)(まぬが)れ、(おお)くの子孫(しそん)(のこ)内容(ないよう)です。人生(じんせい)には、(おうぎ)(はね)のように、()いときも(わる)いときもあり、()いと(おも)ったことが(わる)いことに(つな)がり、(わる)いと(おも)ったことが()いことに(つな)がるのだから、いちいち一喜一憂(いっきいちゆう)しないで自分(じぶん)(みち)(あゆ)(つづ)けなさいという内容(ないよう)です。聖書(せいしょ)(かみ)のはからいは(かぎ)りなく生涯(しょうがい)(わたし)はそのなかに()きる」詩編(しへん)90)という言葉(ことば)があります(かみ)はわたしたちの(あゆ)みに必要(ひつよう)(かて)をお(あた)えになるのだから、一喜一憂(いっきいちゆう)せず信頼(しんらい)のうちに(おそ)れることなく(あゆ)んでいきたいものです(すく)(ぬし)イエス・キリスト()(のぞ)みながら待降(たいこう)(せつ)()ごしいりましょう。

 

 


2023年11月

 「(わか)信仰(しんこう)生活(せいかつ)

 令和5年10月22日

ボナヴェントゥラ・蓑島(みのしま)(かつ)()

 

 コロナまっただなかの2021(ねん)、「みなさんどうされているか心配(しんぱい)になったわたしは、一人(ひとり)ひとりに電話(でんわ)をかけ、その近況(きんきょう)(うかが)いました

ひとりでできるロザリオや散歩(さんぽ)している(かた)ほとんどでしたが、みなさん(かなら)電話(でんわ)最後(さいご)に「神父(しんぷ)さん元気(げんき)でね。いつも(いの)っているからね」とおっしゃってくれたのが昨日(きのう)のことのよう(おも)()されます

あるとき、「この教会(きょうかい)所属(しょぞく)している若者(わかもの)何人(なんにん)ますか」と(たず)ねたところ、その年配(ねんぱい)男性(だんせい)「うち教会(きょうかい)にはハナタレ小僧(こぞう)の70(だい)少々(しょうしょう)ヒヨッコの80(だい)がほどほどに、そして若者(わかもの)90(だい)現役(げんえき)たくさんおります」おっしゃいましたわたしは一瞬(いっしゅん)キョトンとしてしまいましたが、すぐにそのユーモアに()んだ(こた)えのなか本当(ほんとう)(わか)はそれぞれの心持(こころも)なのだということを(おし)えていただいたのでありました

(しょう)棋界(ぎかい)伝説(でんせつ)となっている加藤(かとう)一二三(ひふみ)さん愛称(あいしょう):ひふみん)は現在(げんざい)83(さい)なりますがいまも所属(しょぞく)教会(きょうかい)入門(にゅうもん)養成(ようせい)クラス(おし)えています。ひふみん『だから(わたし)は、(かみ)(しんじ)じる』という著書(ちょしょ)(ふか)霊性(れいせい)謙虚(けんきょ)信仰(しんこう)(しん)、そしてユーモア()(あふ)れている良書(りょうしょ)です49(さい)になった(オムツがとれない赤子(あかご)のような信仰(しんこう)をもつ)わたしの手本(てほん)です

千歳(ちとせ)恵庭(えにわ)教会(きょうかい)にも(おお)くの若者(わかもの)がいらっしゃいますが、どうぞこれからも、あと(つづ)わたしたちをよろしく(ねが)いします。わたしはみなさんの霊的(れいてき)(とう)さん(神父(しんぷ))として、全能(ぜんのう)(ちち)である(かみ)さま(ゆた)かな(めぐ)みと祝福(しゅくふく)(みな)さんさんのうえにありますように、アーメン」と(いの)っていますが、同時(どうじ)に、(みな)さんの後輩(こうはい)として(みな)さんからたくさんのことを(まな)んでいます(さむ)くなりましたので(あたた)かくしてお()ごしください。うかこれからも元気(げんき)でいてください。

千歳(ちとせ)教会(きょうかい)十字架(じゅうじか)道行(みちゆき)設置(せっち)されました。教会(きょうかい)へいらした(さい)は、是非(ぜひ)(らん)になってください礼拝(れいはい)しやすい場所(ばしょ)にあります。それでは失礼(しつれい)します。

 

 

以上(いじょう)


2023年10月

(ちい)さき(はな)のテレジア

令和5年9月22日

ボナベントゥラ・蓑島(みのしま)(かつ)()

 あっというまに(あき)になりました。みなさんからだを大切(たいせつ)になさってください。

わたしは(つき)に2(かい)伊達(だて)()にあるカルメル(かい)女子(じょし)修道院(しゅうどういん)いき、15(にん)のシスターの霊的(れいてき)世話(せわ)しています。修道女達(しゅうどうじょたち)(はは)マリアの(むすめ)として(だい)テレジア(アビラ出身(しゅっしん)イエスのテレジア)と(しょう)テレジア(リジュー出身(しゅっしん)(ちい)さき(はな)のテレジア)の模範(もはん)見習(みなら)い、生涯(しょうがい)のすべてを(かみ)(ゆだ)ねて生活(せいかつ)しています(あさ)(はや)()(いの)労働(ろうどう)(ささ)ますが、(はたけ)仕事(しごと)クッキー製造(せいぞう)(きび)しい労働(ろうどう)です労働(ろうどう)()収入(しゅうにゅう)必要(ひつよう)(ぶん)だけを(のこ)してすべてを支援(しえん)必要(ひつよう)ところへ()()ています。わたし未熟(みじゅく)司祭(しさい)なのにシスターたちの霊的(れいてき)世話(せわ)をしています。(じつ)不思議(ふしぎ)なことですが、イエスの弟子(でし)たちみんなそうでした。それは(だれ)ひとり(おも)いあがらないためです。わたしたちは(みな)自分(じぶん)おかげではなく(かみ)(えら)のおかげで洗礼(せんれい)をうけ、(かみ)()となる(めぐ)みを(いただ)きました人間的(にんげんてき)にみて(すぐ)れた(もの)ではなく、とるになりない(もの)見下(みさ)げられてい(もの)(えら)ばれたので医者(いしゃ)必要(ひつよう)とするのは健康(けんこう)(ひと)ではなく病人(びょうにん)である。わたしが()たのは、(ただ)しい(ひと)(まね)くためではなく、罪人(つみびと)(まね)いて()(あらた)めさせるためである」(ルカ531-32)とイエスは()いました。なんという(なぐさ)めでしょう(ちい)さき(はな)(せい)テレジア姉妹(しまい)心臓(しんぞう)(あい))になりたいと()いました心臓(しんぞう)(ちい)さいですが(やす)むことなく体中(からだじゅう)(いえ)共同体(きょうどうたい)(あたた)かい血液(けつえき)(おく)()します。どんなに(ちい)さい愛情(あいじょう)でも、(かみ)(おお)きなものとしてくださる聖女(せいじょ)(しん)じていました読書(どくしょ)(あき)、ゆっくり聖書(せいしょ)()みながら、(ちい)さくあることを実践(じっせん)してまいりましょう


2023年9月

(ゆる)すこと

令和58月22日

ボナベントゥラ・蓑島(みのしま)(かつ)()

 ペトロがイエスに「(しゅ)よ、兄弟(きょうだい)がわたしに(たい)して(つみ)(おか)したなら、何回(なんかい)(ゆる)すべきでしょうか。七回(ななかい)までですか。」とたずねたとき、イエスは七回(ななかい)どころか(なな)七十倍(ななじゅうばい)までも(ゆる)しなさい。()いました。そのあと、(てん)(くに)のたとえを(かた)(はじ)めま。その内容(ないよう)は、主君(しゅくん)莫大(ばくだい)借金(しゃっきん)帳消(ちょうけ)しにしてもらったにもかかわらず、仲間(なかま)借金(しゃっきん)帳消(ちょうけ)しにしてやらなかった家臣(かしん)主君(しゅくん)牢獄(ろうごく)()()れてしまったというものした(かみ)わたしたちを(あわ)れに(おも)いすべての(つみ)(ゆる)てくださいましたが、わたしたち仲間(なかま)(つみ)(ゆる)さずに当然(とうぜん)のように謝罪(しゃざい)()(あらた)めを(もと)ることにより、(こころ)(にく)しみや敵意(てきい)といった牢獄(ろうごく)()()れられてしまっている、というので幼少期(ようしょうき)から中年期(ちゅうねんき)(いた)るまで、わたしはいったい何度(なんど)(ゆる)されてきたのだろうか。これから(さき)もまた(おお)(ゆる)されていくのだろうが、キリストの司祭(しさい)として、そして、ひとりの人間(にんげん)として、“(ゆる)すこと”ができているのだろうか。イエスのみことば今日(きょう)わたしに霊的(れいてき)内省(ないせい)(うなが)します

 

(せい)ヨハネ・クリゾストモは「(ゆる)すとき、もっとも(かみ)()(もの)となる」と()いました(ゆる)すことは、ときに(おお)きな困難(こんなん)(ともな)いますが、(かみ)恩恵(おんけい)があれば(かなら)(ゆる)すことができるでしょう。(たが)いに(ゆる)しあい、(あい)いながら、(つめ)牢獄(ろうごく)()()し、(かみ)()自由(じゆう)()ちた(よろこ)びに()(まい)りましょう(みな)さん、インターネットやテレビを()るのと(おな)じくらいに聖書(せいしょ)()時間(じかん)()ちましょう。みことばが今日(きょう)(あい)する(ちから)(あた)えてくださいます


2023年8月

令和5年7月29日

ボナヴェントゥラ・蓑島みのしまかつや 

「キリスト(しゃ)生活(せいかつ)中心(ちゅうしん)

 大丈夫(だいじょうぶ)イエスさまはわたしたちを(ささ)えるためミサをつくってくださいました。イエスさまはご聖体(せいたい)のかたちとなって、わたしたちの(なか)へやってきて、ご自分(じぶん)(あい)()たしてくださいます(かみ)さまとひとつになるなんて、なん偉大(いだい)神秘(しんぴ)でしょうミサ(や集会(しゅうかい)祭儀(さいぎ))でイエスさまをお(むか)えするため(こころ)とからだ掃除(そうじ)をしましょう(いの)りがはじまる(まえ)(こころ)のなかにたまっているホコリやゴミを(あつ)しょうミサのいちじかん(まえ)から水分(すいぶん)いがいの食事(しょくじ)とらず、じぶんにできる礼服(れいふく)()たりベールをかぶったりし受入(うけいれ)態勢(たいせい)(ととの)えましょうLex(レクス) Orandi(オランディ), Lex(レクス) Credendi(クレデンディ)(いの)りの(ほう)信仰(しんこう)(ほう))」ということわざがあるように、それがすでに(いの)りの一部(いちぶ)なのです。(いの)り(の準備(じゅんび))でその(ひと)信仰(しんこう)がわかるという意味合(いみあ)いですメジャーリーグで活躍(かつやく)したイチロー選手(せんしゅ)最高(さいこう)のパフォーマンスを()すために、(いえ)をでるとき心のスイッチを()()えたそうですが、わたしも祭服(さいふく)着替(きが)えるとき(こころ)()()える(いの)りをします。はじめてのようにsicut(シクト) Prima(プリマ))、さいごのように(sicut(シクト) Ultima(ウルティマ))、ここだけで行われているように(sicut(シクト) unica(ウニカ))、最大の熱意(ねつい)もってイエスの(あい)食卓(しょくたく)司式(ししき)することができますように(せい)ヨハネ・パウロ二世(にせい)教皇(きょうこう)は、ミサのときも、ミサ以外(いがい)のときも、聖体(せいたい)がある聖堂(せいどう)(いの)りの(いえ)するよう(すす)めています。(しゅ)(じつ)ミサや集会(しゅうかい)祭儀(さいぎ)への参加(さんか)だけでなく平日(へいじつ)聖体(せいたい)訪問(ほうもん)(すす)めしています。諸事情(しょじじょう)により教会(きょうかい)()られない(かた)連絡(れんらく)ください。聖体(せいたい)奉仕者(ほうししゃ)(みな)さんと協力(きょうりょく)してイエスさまをお(とど)いたします。今年(ことし)(あつ)くなりそうです(みな)さんの(こころ)(からだ)健康(けんこう)無事(ぶじ)(いの)っています、アーメン


2023年7月

(あい)(ほのお)

令和5年6月17日

ボナヴェントゥラ・蓑島(みのしま)(かつ)()

 “神父(しんぷ)さんお(つか)れですね?”と(こえ)をかけられ、はじめて自分(じぶん)(つか)れていることを()らされる今日(きょう)この(ごろ)たしかに最近(さいきん)(わたし)生活(せいかつ)不規則(ふきそく)です。毎日(まいにち)早朝(そうちょう)だったり夕方(ゆうがた)だったりとその()予定(よてい)によって()わり担当(たんとう)する教会(きょうかい)幼稚園(ようちえん)(かく)委員会(いいんかい)巻頭(かんとう)(げん)説教(せっきょう)勉強会(べんきょうかい)資料作(しりょうづく)(など)()われあっという()時間(じかん)()ていきますときに(こころ)ない批判(ひはん)()けることもありますが、謙虚(けんきょ)()()ながら(あた)えられた使命(しめい)()たしていこうと(おも)います。コロナの後遺症(こういしょう)はまだあるものの、(みな)さんに(たす)けられ、(いの)っていただながらなんとかキリストの祭司(さいし)(しょく)()たすことできています先日(せんじつ)(みな)さん電話(でんわ)でお(はな)しすることができたことは(おお)きな(よろこ)でした自宅(じたく)病院(びょういん)聖体(せいたい)のイエス(さま)()することができ(うれ)しかったです。本当(ほんとう)ありがとうございました。

 わたしは担当(たんとう)司祭(しさい)としていくつか活動(かつどう)(かか)わっていますが、肉体(にくたい)(つか)いつも(こころ)()えていますホームレス支援(しえん)“みなずき(かい)毎週(まいしゅう)水曜日(すいようび)弁当(べんとう)衣類(いるい)配布(はいふ)しますたくさんのイエス(さま)()られます。最近(さいきん)正義(せいぎ)平和(へいわ)協議会(きょうぎかい)ではとくに大軍(だいぐんかく)(すす)んでいる現実(げんじつ)(まな)んでいます(まず)くなりつつある国民(こくみん)生活(せいかつ)よりも軍拡(ぐんかく)優先(ゆうせん)する政府(せいふ)姿(すがた)戦前(せんぜん)(おな)じですそのほか聖書(せいしょ)委員会(いいんかい)エキュメニカル委員会(いいんかい)、“(しん)学生(がくせい)養成(ようせい)担当(たんとう)終身(しゅうしん)助祭(じょさい)委員会(いいんかい)は、(かみ)のことば奥深(おくふか)ともに(いの)ることの(よろこ)び、キリストの養成(ようせい)(まな)んでいます(つき)(かい)伊達(だて)カルメル(かい)での講話(こうわ)霊的(れいてき)同伴(どうはん)では指導(しどう)している(わたし)(ぎゃく)シスター(たち)から(ちから)をいただきます“ほっかいどうオリーブの(かい)”では様々(さまざま)()きづらさをもっている(かた)(あつ)まり(たが)いに(ささ)えあっておられますが、自分(じぶん)(くる)しみよりも(となり)(ひと)(くる)しみに()()姿(すがた)わたしどう()きるべきかを(おし)えてくださいますそして、なんといっても(みな)さんが(わか)かち()ってくださる(かみ)との出会(であ)いや信仰(しんこう)体験(たいけん)数々(かずかず)がわたしにとって(おお)きな(まな)びの()元気(げんき)(みなもと)です(がつ)佐久間(さくま)神父(しんぷ)(さま)故郷(ふるさと)訪問(ほうもん)するバス旅行(りょこう)があります。(いそが)しい毎日(まいにち)()ごしている(わたし)たちきっと(かみ)(さま)(こころ)(いや)しを(あた)えてくださるでしょう一緒(いっしょ)()けない(かた)のためにもたくさん(いの)(かた)()ってまいりましょう小林(こばやし)神父(しんぷ)(さま)一緒(いっしょ)にいってくださいます。わたしたちの信仰(しんこう)生活(せいかつ)教会(きょうかい)活動(かつどう)(ひと)つひとつが(おお)くの(ひと)(こころ)(あい)(ほのお)をともすものとなりますように。 


2023年6月

「イエスのみ(こころ)

 令和5年5月23日

ボナヴェントゥラ・蓑島(みのしま)(かつ)()

 

 6(がつ)は“三位(さんみ)一体(いったい)”、“キリストの聖体(せいたい)”、“イエスのみ(こころ)”と(かみ)のお(いわ)いが(つづ)きます。

 日本(にほん)()教団(きょうだん)は『カトリック教会(きょうかい)(おし)え』のなかで、三位(さんみ)一体(いったい)(かみ)について、〕(ちち)なる(かみ)()であるキリストが(つた)え、(ちち)()は、聖霊(せいれい)において直接(ちょくせつ)わたしたちに到達(とうたつ)する(おし)えています。わたしたちは、「(ちち)()聖霊(せいれい)のみ()によって、アーメン十字(じゅうじ)のしるしをきりますが、(かみ)(とも)すべてを(はじ)()えるとき三位(さんみ)一体(いったい)(かみ)がわたしたちを(かみ)(いのち)(あい))で()たしますそんなわたしたちを(ちから)づけるため、イエスはパンの(かたち)でミサの(たび)ごとにやってきて(われ)らの(なか)(こころ)(あい)であるご自身(じしん)()たしてくださいます。(かみ)人間(にんげん)がひとつになるという(おどろ)くべき神秘(しんぴ)です17世紀(せいき)のフランスの修道女(しゅうどうじょ)アラコックは、ミサ、聖体(せいたい)拝領(はいりょう)(こっ)(かい)大切(たいせつ)にすることによってイエス聖心(みこころ)への敬意(けいい)(ふか)信心(しんじん)(はじ)めました。イエスわたしたちの(から)っぽの(こころ)をご自身(じしん)(あい)()たしてくださるという信仰(しんこう)です。

 わたしたちが()んでいる恵庭市(えにわし)千歳市(ちとせし)は、道内(どうない)(さか)えつつある場所(ばしょ)としていま注目(ちゅうもく)()びています。日本(にほん)経済(けいざい)(ささ)える半導体(はんどうたい)会社(がいしゃ)ラピダス(ラテン語で、猛烈(もうれつ)(はや)いという意味(いみ))は千歳市(ちとせし)中心(ちゅうしん)苫小牧市(とまこまいし)札幌市(さっぽろし)石狩市(いしかりし)事業(じぎょう)展開(てんかい)していくそうですが、大自然(だいしぜん)(のこ)恵庭(えにわ)千歳(ちとせ)これから24時間(じかん)(ねむ)らない(まち)へと()わっていくのでしょうか星空(ほしぞら)見上(みあ)げながらゆっくりと(かみ)(あい)”を黙想(もくそう)する時間(じかん)大切(たいせつ)ていきましょう

 わたしたちは24時間(じかん)(ひかり)()として(しん)(ひかり)”を(たずさ)えて、すべての(ひと)(かかわ)ることができますどんなに経済的(けいざいてき)発展(はってん)(むか)えたとしても(まち)(ひかり)孤独(こどく)という暗闇(くらやみ)(てら)らすことできません。(だれ)しもが(かん)じる孤独(こどく)()()すことができるの(あい)という()(ひかり)です。微笑(ほほえ)(やさ)しい言葉掛(ことばか)け、(たす)()()()相手(あいて)(こころ)(おも)いやる、わたしたちは(なに)ができるでしょうか。三位(さんみ)一体(いったい)(かみ)(とも)にいて、わたしたちを(かみ)(いのち)()たしてくださるのですから自分(じぶん)(いのち)(ひかり)(まわ)りを()らすことができるでしょう。イエスの聖心(みこころ)(むね)()て、今月(こんげつ)(こころ)一つ(ひとつ)信仰(しんこう)生活(せいかつ)(あゆ)んで(まい)りましょう


2023年5月

 「千歳(ちとせ)教会(きょうかい)(みな)さんへ

令和(れいわ)5年(  ねん)4月(  がつ)30日(  にち)

 

カトリック千歳(ちとせ)教会(きょうかい)司祭(しさい)  ボナヴェントゥラ・(みのしま)(かつ)()

 

 

 カトリック千歳(ちとせ)教会(きょうかい)(みな)さんはじめまして。(がつ)()(にん)蓑島(みのしま)神父(しんぷ)です。(うま)れは丹頂(たんちょう)(づる)有名(ゆうめい)釧路市(くしろし)す。出身(しゅっしん)教会(きょうかい)酪農(らくのう)盛ん(さかん)十勝(とかち)地方(ちほう)にあるカトリック帯広(おびひろ)教会(きょうかい)十勝(とかち)カルメル会(      かい)女子(じょし)修道院(しゅうどういん)毎朝(まいあさ)通って(かよ    )いました。前任者(ぜんにんしゃ)佐久間(さくま)神父(しんぷ)(かみ)学校(がっこう)時代(じだい)(いち)学年(がくねん)先輩(せんぱい)、わたしは札幌(さっぽろ)(きょう)()一番(いちばん)(した)()神父(しんぷ)となります(みぎ)(ひだり)、そして(うえ)(した)もわかりませんが一生懸命(いっしょうけんめい)頑張ります(がんば    )のでご指導(ごしどう)ご鞭撻(ごべんたつ)をよろしくお願い(おねがい)します。

 パパ・フランシスコが「すべてのいのちを(まも)る」というメッセージを(たずさ)えて来日(らいにち)したき、(わたし)東京(とうきょう)ドーム一緒(いっしょ)にミサを司式(ししき)しました。パパが()いた『Placuit Deo(かみ)はよしとされた)』という書簡(しょかん)わたし司祭(しさい)生活(せいかつ)指針(ししん)ですパパいわく、()牧者(ぼくしゃ)喜び(よろこ )”をたずさえて(ちい)さくされている人々(ひとびと)のところへ出向(でむ)ていく(もの)でなければならないが、ただ出向(でむ)いていくのではなく出会(であ)一人(ひとり)ひとりの(こころ)時間(じかん)をかけて()()(もの)でなければならない。ミサ勉強会(べんきょうかい)大切(たいせつ)務め(つと )であるが、もっとも大切(たいせつ)なのは一人(ひとり)ひとりの(こころ)にふれることである司教(しきょう)司祭(しさい)信徒(しんと)世話(せわ)をするとき一人(ひとり)ひとりの(こころ)(うご)きを察知(さっち)して、理解(りかい)し、導き(みちび )成長(せいちょう)させ、識別(しきべつ)して、霊的(れいてき)指導(しどう)与える(あた   )養成(ようせい)務め(つと  )がある(パパ霊的(れいてき)指導(しどう)のできる()牧者(ぼくしゃ)(のぞ)んでいるようです)。こういう司祭(しさい)目指(めざ)して(いの)りと(まな )びの日々(ひび)()ごしています。

 わたしは現在(げんざい)札幌(さっぽろ)(きょう)()(しん)学生(がくせい)養成(ようせい)担当(たんとう)(つと)めていますが伊達(だて)カルメル(かい)女子(じょし)修道院(しゅうどういん)シスターたちの霊的(れいてき)同伴(どうはん)(ゆるしの秘跡(ひせき))と要理(ようり)教育(きょういく)担当(たんとう)していますこれらの役目(やくめ)(つう)じて実は(じつ  )わたし自身(じしん)イエス・キリストから霊的(れいてき)指導(しどう)受けて(うけて)いると感じて(かん  )います。そしてなにより信徒(しんと)皆様(みなさま)との関り(かかわ  )がわたしにとって大切(たいせつ)学び(まな  )(とき)であります。どうか千歳(ちとせ)教会(きょうかい)皆様(みなさま)におかれましては色々(いろいろ)お話( はなし)聞かせて(き  )くださいますようお願い(おねがい)します。

 戦国(せんごく)時代(じだい)クリスチャン大名(だいみょう)として生きた(い  )ユスト高山(たかやま)右近(うこん)は、抹茶(まっちゃ)友人(ゆうじん)振舞い(ふるま )ながら一緒(いっしょ)ロザリオをしていたそうです。仲間(なかま)たちの悩み(なやみ)相談(そうだん)受けながら(う   )ともにデウス導き(みちび  )願って(ねが   )いたようです。わたしも皆さん(みな   )一緒(いっしょ)抹茶会(まっちゃかい)をしながらロザリオ歌唱(かしょう)(せい)()日課(にっか)をしたい思います(おも    )

 まだまだコロナ()不安(ふあん)続いて(つづ   )いますが、同じ(おな  )信仰(しんこう)をもつ一人(ひとり)仲間(なかま)として(たが)いに(たが)いの無事(ぶじ)健康(けんこう)祈りながら(いの      )千歳(ちとせ)教会(きょうかい)活動(かつどう)一緒(いっしょ)作り上げて(つく あ   )いきたいと思います(おも     )のでご指導( しどう)ご鞭撻( べんたつ)重ねて(かさ  )お願い( ねが )申し上げます(もう あ     )

母マリア(はは    )どんなときもわたしたちを(しゅ)イエス(いえす)のもとへ(みちび)きくださいますように(いの)りながら挨拶(あいさつ)()わります。

 

(しゅ)(めぐ)みと平和(へいわ)(みな)さんのうえにありますように、アーメン。


2023年4月

                       令和5322

カトリック千歳教会主任司祭 佐久間 力

復活(ふっかつ)希望(きぼう)の中で」

(おも)(かえ)してみますれば、2020年に恵庭(えにわ)千歳(ちとせ)(きた)広島(ひろしま)教会(きょうかい)()(にん)してか(はや)三年(さんねん)。ずっとコロナ()ったので、所属(しょぞく)信徒(しんと)(なか)には佐久間(さくま)神父(しんぷ)()ったことがないという(かた)もいるかも()れません。3年前(ねんまえ)、コロナの緊急(きんきゅう)事態(じたい)宣言(せんげん)(なか)接触(せっしょく)()けるために、(しゅ)(じつ)のミサ参列(さんれつ)中止(ちゅうし)となり、司教(しきょう)(さま)司祭団(しさいだん)だけの、不思議(ふしぎ)(せい)週間(しゅうかん)(おく)ったのを(おも)()します。そして今、コロナがようやく()(はじ)め、教会(きょうかい)活動(かつどう)がこれからというときに、教会(きょうかい)(あと)にしなければならないのは本当(ほんとう)残念(ざんねん)でなりません。わたし自身(じしん)も、(あたら)しく()()教会(きょうかい)で、(なに)ができるのか、(なに)()きるのかを(かんが)えると不安(ふあん)もつのります。これから、(あたら)しい場所(ばしょ)で、(あら)たな人間(にんげん)関係(かんけい)(きず)ところから(あらた)めて(はじ)めていかなければなりません。

しかしどんな(とき)も、これから(おとず)れるであろう「変化(へんか)」を(おそ)れるのはわたしたちにとって、()たり(まえ)のことです。変化(へんか)(かなら)(いた)みを(ともな)うがためです。これまでやってきたことを()えることは、それまでの日常(にちじょう)変化(へんか)させ、それに(のう)(からだ)順応(じゅんのう)させなければなりません(あたま)使(つか)わなければならないとき、(ひと)はストレスを(かん)じるし順応(じゅんのう)するためのトレーニングにもストレスや(いた)みが(ともな)います。だから(ひと)変化(へんか)(おそ)なるべく変化(へんか)をしないように、ストレスがないように()()おうとします。しかし、変化(へんか)のない(ところ)には、「成長(せいちょう)」や「成熟(せいじゅく)」もありません()うならば、変化(へんか)(かなら)成長(せいちょう)成熟(せいじゅく)をもたらしてくれると()えます。また、たとえ司祭(しさい)()わらなくとも、教会(きょうかい)(つね)変化(へんか)していきます。信徒(しんと)(とし)()るし、メンバーが()ることもあれば、(あら)たに(くわ)わるということもあるでしょう。そうやって(つね)変化(へんか)(つづ)けていくのも、教会(きょうかい)姿(すがた)であると(おも)いますし、(あたら)しくなる(なか)には(かなら)不安(ふあん)(ともな)います。将来(しょうらい)はどうなるのか、この教会(きょうかい)はどうなっていくのかと。しかし、どんな(とき)でも、その変化(へんか)(なか)には、イエス(さま)(はたら)いてくださるのだとわたしは(しん)じています。そのイエス(さま)介在(かいざい)(しん)じることができるなら、どんな(とき)でも希望(きぼう)(うしな)われることはありません。「これから、どうなってしまうのか」ではなく、「いったい、これからどんなことが()こるんだろう」というワクワク(かん)こそが大切(たいせつ)そんなふうに()かたを()えることが、また(あたら)しい希望(きぼう)()()みます。

そしてまた、もう(ひと)大切(たいせつ)(とき)にも、(ひと)(いた)みを(かん)じます。それは「(あい)」を(おこな)(とき)です。(ひと)(あい)するとき、それは(かなら)(いた)みを(ともな)います。子供(こども)(あい)するとき、自分(じぶん)のことなど(かえり)みずに世話(せわ)をする(おや)は、()(けず)って子供(こども)世話(せわ)をする。(だれ)かのために見返(みかえ)りを(もと)めずに(あた)えるとき、そこには(あい)があり(いた)みがあります。マザーテレサも、「(いた)むほどに(あた)えなさい」と()われます。(ひと)(あい)するとき、(みずか)らを()(ちから)()ます。だからこそ、(あい)するとき(ひと)(いた)みながらも()えられていく。その(おお)きな(あい)と、(おお)きな変化(へんか)体現(たいげん)した(かた)こそ、イエス(さま)その(ひと)でしょう。(かみ)でありながら(ひと)とな(かみ)(あい)宣教(せんきょう)(さき)にあった受難(じゅなん)(なか)での、十字架上(じゅうじかじょう)()とそこからの復活(ふっかつ)。この神秘(しんぴ)(なか)にこそ(おお)きな(あい)と、はかり()れない希望(きぼう)があります。

 

これからも、(おお)きな変化(へんか)がわたしたちの共同体(きょうどうたい)社会(社会)、それぞれの人生(じんせい)(あた)えられることでしょう。そのたびに(おそ)れ、不安(ふあん)(おちい)り、(とき)には()()したくもなるときもあるかも()れません。そんな(とき)こそ、イエス(さま)受難(じゅなん)復活(ふっかつ)()()け、(たし)かな希望(きぼう)がそこにあることを確認(かくにん)し、(あら)たな一歩(いっぽ)(すす)めていく(ちから)()けていきましょう。わたしたちはどこにいても、いつも「(ひと)つの教会(教会)」の(なか)で、イエス(さま)(ぼく)(しゃ)として(あゆ)(ひつじ)です。(あたら)しい季節(きせつ)に、わたしたちの羊飼(ひつじか)いと(とも)に、一歩(いっぽ)一歩(いっぽ)希望(きぼう)(なか)(あゆ)んでまいりましょう。


2023年3月

令和5222

カトリック千歳教会主任司祭 佐久間 力

 

「灰をかぶるということ」

 

 今年も、四旬節に入りました。わたしたちは「灰の水曜日」に集まり、灰を受けます。子供のころは、この灰の式はさっぱり意味は分かっていませんでしたが、額に灰を塗り付けられるのは、なんとなく特別な紋章でももらったかのように、ちょっと誇らしく嬉しかったのを思い出します。もちろん子供ですから、額の灰の付いた所に両手の指を当てて「第三の目、開眼!」と言いながら、おだっているだけの事で、断食や犠牲については、何にもわかっていなかったのは言うまでもありません。

 灰をかぶる、塵に座る、塵の上に体を転げるという、灰や塵に関した行為が、旧約聖書の中ではよく見られます。そして合わせて服を引き裂く、粗布をまとう、断食、などの行為も伴います。これらの行為は、その時既に起きた、あるいはこれから起こる神の怒り、災難に際して行われます。例えば、ヨブ記では、悪魔の計らいですべてを失い、自身もひどい皮膚病にかかってしまったヨブは「灰の中に座り」(28節)、彼を見舞った友人たちも「嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった」(212-13節)とあります。このように「灰をかぶる」「塵の上に座る」という行為は、ユダヤ人にとって自分の惨めさや弱さを神の前に示すことであり、みずからの謙虚さ、従順さの姿勢を示して、神の憐れみを求めるという儀式でした。

 わたしたちが四旬節の始めに灰を頭に受けますが、灰を受ける、あるいは四旬節に勧められる「断食や節制」自体に恵みがあるというよりも、そこに「犠牲」の心が湧き上がるからこそ、恵であると言えるのでしょう。預言者イザヤは言います「お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう、、、そのようなものがわたしの選ぶ断食苦行の日だろうか、、、頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それをお前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。、、、虐げられた人を介抱し、、、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」(イザヤ584-9節) いま世界を見回しても、この時代にこのようなことが起こるのかという目を疑うような事態が各所で起こっています。戦争、クーデター、人民の抑圧、自然災害、そんな中で、少しの犠牲を払い、支援や援助に心を向ける、これも神様の求める断食と節制になると言えるでしょう。

 この四旬節の始まりに、「灰をかぶる」という行為に込められた意味を心に留め、いつもは向き合いたくない自分の罪や弱さに目を向け、神の前に素直に差し出す、それが大切です。しかし、このような弱いわたしたちのために主イエスは受難を受け、死に、そして復活されたました。その恵みに感謝しながら、神に心を向ける「回心の時」を過ごしてまいりましょう。


2023年2月

                          令和5125

カトリック千歳教会司祭 佐久間 力

「イエス様の『愛しなさい』という命令」

 

 「蛙の祈り」(アントニー・デ・メロ著/裏辻洋二訳/女子パウロ会)から。

<兄弟愛>

二人の兄弟がいた。一方は独り者で、他方は所帯持ちだった。彼らは二人して、たんぼを所有していた。地味豊かなので、いつも豊作に恵まれた。収穫はいつも折半していた。

 

 当初、何事もなく過ぎていた。さて、所帯持ちの男は時折、夜寝つくと目がさえるようになった。彼はこう考えた。

 「どうもこれは公平じゃない。わたしの兄弟は結婚していない。彼が手にするのは収穫の半分だ。一方私には妻と五人の子供がいる。晩年に必要な蓄えは十分にある。だが兄弟が年老いたら、いったいだれが彼の面倒をみるのだろうか。今以上に将来に備えて、蓄えをしておかなければならない。そうだ、私以上に必要なんだ。」

 そこで彼は起きだし、穀物袋を担ぐと兄弟の家にそっと忍びこみ、倉庫に納めた。

 

 独り者のほうもこのごろ寝つきが悪く、目のさえることが多かった。すっかり目がさえたとき、彼はこうつぶやいた。

 「これはまったく不公平だ。兄弟には妻と五人の子供がいる。彼が手にしているのは収穫の半分だ。私は自分が一人食べてゆけたらそれでいい。兄弟は私よりももっと多くを必要としている。彼に多くを与えるのが道理というもんだ。」

 そこで彼は起きだし、兄弟の倉庫に穀物袋をそっと置いてきた。

 ある夜、二人は同じ時刻に起きだし、背中に穀物袋を背負って、相手の家に向かって走った。

 

 何年もたって、二人ともに亡くなった。生前の彼らの話がもれ伝わってきた。町民たちは二人の心がけに感動し、二人を記念する寺を建立することにした。その場所は彼ら兄弟が穀物袋を背負って、鉢合わせした場所と決まった。町にはそこをおいて他に聖なる場所はないという意見によったのである。

 

  宗教的であるかないかの区分をつける重要な要素は、

 礼拝するかしないかの間ではなく、

 愛するか愛さないかの間にある。

 

 イエス様は、わたしたちに「愛しなさい」と命令されます。しかし、愛することは命令されて行うことができることでしょうか。心の中から湧き上がる、相手のことを思い、相手の幸せを願い、なんでもいいから自分の持っているものを相手に与えたいという気持ちに従がって、自由に行って初めて愛になるものであると思います。しかしその結果がもたらすことは、自分の思い描いた通りであるとは限りません。この兄弟愛の物語を読んで、美しいと思うか、お互い無駄なことをした兄弟と見るかは、見る者の視線によって変わります。兄弟がお互いに思い合い、愛を与えあった結果は、感動と宗教的な崇敬まで起こさせ、後世の人に「愛することはなにか」という教訓を広めます。しかし、この兄弟はそこを目指してはいなかったでしょう。

 

わたしたちは、誰かに何かをしてあげたいという思いに駆られて動くこともありますが、そこについ見返りを求めてしまいます。だから「あんなにしてあげたのに、なんでわかってくれないの?」という言葉が口をついて出てきてしまう。わたしたちは本当に弱い存在なので、なかなか神様に「ゆだねる」ということが難しい。いつでも尊敬されたい、褒められたい、認めてもらいたいと不平と不満をため込みます。また、それがストレスでやる気も失ってしまう。これは自由ではないですね。イエス様の言った「わたしの願いではなく、御心のままに」(ルカ22章42節)という言葉が、わたしたちの祈りと行いになりますように祈っていきましょう。きっとあなたの思いは報われます、神様の前で。


2023年1月

                     令和41221

カトリック千歳教会司祭 佐久間 力

「主のご降誕に願いを」

 

2022年もまた、1年を通してあまり明るくないニュースが多い年でした。コロナ感染は拡大を継続し、ウクライナでは戦争が始まりまだ続いている、気候変動によって大雨や大雪の災害も、冬が始まったばかりなのにすでに起きている。来年こそは明るい一年であるようにと、昨年の今頃にも願ったことを思い出します。このクリスマス聖なる夜に思うのは、イエス様はこんな混乱続く世界に飛び込んでこられたんだなあという感謝の気持ちと、でも、これらの問題をいっきに解決はしてくれないんだなあという思いでした。そう考えてみると、イエス様って「ウルトラマン」というより、「ドラえもん」なんだなあという思いが頭によぎります。

ウルトラマンはひとたび怪獣が現れるとどこからともなく現れて、3分以内で怪獣を倒して空の彼方へ帰っていく。それは、自らの強大な力で、人々の前に身を挺し、問題をすべて解決する存在として神様のようにあがめられる存在、ヒーローそのものです。しかし、ドラえもんはのび太が問題を抱えて困って頼ってくると、その問題解決に役立つ道具を取り出して与え、その道具を持って自分で解決するようにさせます。そしてのび太がその道具を誤って使う(たいていはいたずら)と、のび太をたしなめて、正しい使い方を教えて、問題を解決するまで同伴する、そんな存在だと思うんです。

しかし、意外とわたしたちがキリストに願っていることは、実はウルトラマンのように本人が現れて、直接問題を解決し、すべてを平定するような願いかたではないでしょうか。特に日本人は水戸黄門に代表される「勧善懲悪」(悪を懲らしめ、正義を見せつけること。つまり正義は勝つ!)を好むし、そうなることを望みます。悪い人を探し出し、その悪い人が大きな力に裁かれるのが好きですから。

でも、イエス様のやり方はきっと「ドラえもん的」なやり方です。のび太の助けを求める声を聞き、問題解決に必要な道具を出してあげて、のび太自身にその問題と向き合わせます。その問題解決も単にいじめっ子を懲らしめるというより、のび太もジャイアンもスネ夫もしずかちゃんも、最後にはみんな納得して、また仲間になるという方向が多い気がします。きっとイエス様はこんな結論を目指しているからこそ、わたしたちに「思いやり」や「分かち合い」や「対話」などの道具を与えて、イエス様自身も、わたしたちと一緒に歩んでくれるんだろうと思います。

だからこそ、この世界に現れるとき、すべてを解決するスーパー・ヒーローのような登場のし方はしないで、わたしたちに「同伴する」べく、わたしたちと同じ弱い存在「赤ちゃん」としてお生まれになったのだと思い至ると、この主のご降誕にも大きな感慨を感じます。

さて、クリスマスと新年を迎えるわたしたちが、この静かな聖なる夜に、イエス様にどんな「道具」を出してもらうことを願いましょうか …。